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謎多き《忘れえぬ女》の魅力【トレチャコフ美術館展開催記念】

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 イヴァン・クラムスコイ《忘れえぬ女》(1883)油彩 キャンバス

国立トレチャコフ美術館

 2018年11月23日から2019年1月27日まで、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムにて約10年ぶりの開催となるトレチャコフ美術館展『ロマンティック・ロシア』が開催される。

 

本展の目玉はなんと言っても公式サイトのトップを飾っているイヴァン・クラムスコイの名画《忘れえぬ女》である。

この作品は度々来日しており、本展で通算8回目の展示となる。

この記事では待望のロシア絵画展の開催を記念して、イヴァン・クラムスイの代表作である《忘れえぬ女》について少しばかり解説を付したいと思う。

ロシアのモナリザと謳われる名画

《忘れえぬ女》は19世紀ロシア絵画において最も有名な作品の一つであり、ロシア国内で非常に高い人気を誇るクラムスコイの傑作である。その優れたイメージは同時代の西洋絵画の中でも傑出しており、俗に「ロシアのモナリザ」と呼ばれることも。

原題は «Неизвестная» (ニイズヴェースナヤ)といい、意味は「見知らぬ女」「名の知れない女」という意味。日本では《忘れえぬ女》というタイトルで知られている。

 

人気の秘密はそのミステリアスな容貌

f:id:iskusstvo:20180927004107j:imageイヴァン・クラムスコイ《忘れえぬ女》部分

原題の通り、モデルの女性が誰なのかは今なお不明である。クラムスコイの手記や手紙にもこのモデルについての記述は一切ないという。

一見すると当時の流行のファッションに身を包んだ、若く美麗な様子から上流階級の出身であることがうかがえる。容姿は見目麗しく、どことなく東洋の血が入っているようにも見える。

彼女は馬車の上からじっと冷たい視線をこちらに向けている。その佇まいは優美ながらも高慢で挑発的にすら見える。この高貴でエキゾチックな美女を目にしたらまさに「忘れえぬ」ことだろう。

当時の貴族社会の常識からすると二人がけの馬車に女性が一人で座っているのは奇妙なことで、隣には夫なり父親なり男性が座っているのが普通である。

隣に誰かを描く構想はクラムスコイにあったのだろうか。これもまた謎を呼んでいる。

現代ではこの「見知らぬ女」をトルストイの長編小説《アンナ・カレーニナ》の主人公や、ドストエフスキーの小説《白痴》の登場人物であるナスターシャ・フィリポヴナにその人物像を重ねる見方もある。日本では《忘れえぬ女》のモデルはアンナ・カレーニナその人なのではと勘違いされることもしばしばである。

彼女をこれらの小説の登場人物と同一視するのは空想の域を出ないだろう。しかしそのような多様な解釈を可能にするのも《忘れえぬ女》の魅力なのだ。

Anna Karenina (Centaur Classics) [The 100 greatest novels of all time - #12]

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トルストイアンナ・カレーニナ』の表紙を《忘れえぬ女》がイメージとして飾っている

その正体は娼婦か美の女神か 

ここに似たような構図の婦人の肖像画がある。あまり知られていないのだが、実はこれは《忘れえぬ女》の習作バージョンである。

f:id:iskusstvo:20170817203957j:plainクラムスコイ《忘れえぬ女》習作(1883) 個人蔵 プラハ

目鼻立ちは完成品とほぼ変わりないが、あご周りは少しばかりたるんでいてお世辞にも完璧な美女とは言えない。

実際のモデルはもしかしたら見目麗しい貴族の婦人というより、むしろ街中の庶民的な身分の女性だったのかもしれない。

詳細が不明なモデルということもあり、完成品の絵を見た同時代人はこの《忘れえぬ女》を高級娼婦などと呼び、俗悪なものとして扱った。

作品が公表された当時、トレチャコフ美術館の創設者であるパーヴェル・トレチャコフはこの作品を購入することはなかった。この作品がトレチャコフ美術館のコレクションに入ったのは1925年と、かなり後になってからだ。

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イヴァン・クラムスコイ《パーヴェル・トレチャコフの肖像》(1876)油彩、キャンバス トレチャコフ美術館

 

社会的レアリスム的な見方をすれば、この作品には女性問題といった社会的なテーマが根底にあるのかもしれない。娼婦という世間から嫌悪される身分である彼女が、逆にその冷酷な視線をもって社会を痛烈に批判する。そんな構図が浮かんでくるようだ。

そうした構図を表現しつつも、クラムスコイは《忘れえぬ女》を自らの理想的な女性像として描いている。みずみずしく優美なフォルム、黒い瞳、ふっくらと官能的な唇、豪華な毛皮、羽飾りの洒落た帽子。その細部に渡って画家は愛情を込めて描いている。

外面は完璧に美しく見える《忘れえぬ女》。しかしその内面はどうだろう。外見の美しさと精神の美しさの境界はどこにあるのか。

《忘れえぬ女》は理想的な女性美を体現しながら、もしかしたら娼婦なのかもしれない。そのような彼女は真に美しいと言えるのか?名前の無い「見知らぬ女」を通じて、画家はそのような問いを投げかけているのではないか…。

 

《忘れえぬ女》の鑑賞の仕方

しかし、この「見知らぬ女」の正体探しを続けるのはナンセンスだろう。

事実のみを述べれば《忘れえぬ女》は実在した人物でなければ、ロマンティックな小説の登場人物でもない。

だがこの絵に魅せられた鑑賞者は空想と現実が入り混じり、様々な憶測や議論をせずにはいられなくなる。まるでペテルブルクの幻影に魅入られたように…。

これはただの絵画である。

肖像画、社会的レアリスム画といったジャンル分けは可能だが《忘れえぬ女》にとっておそらくそれは意味を成さないだろう。

この作品を鑑賞し、あなたの心に残ったものが全てである。極端な言い方をすれば、むしろそれ以外何もなくていい。

ある人にとってはアンナ・カレーニナに見えるかもしれない、またある人にとっては美しき永遠なる女性に映るかもしれない。

鑑賞者それぞれにいくつものイメージを作り出すことができるのは、この作品に底知れぬ魅力があるからに他ならない。そして画家自身をも魅了した傑作《忘れえぬ女》は時代を超えて多くの人々に愛され続けるだろう。

 さぁ、「ロマンティック・ロシア」展で《忘れえぬ女》に会いに行こう。《忘れえぬ女》は謎に満ちた名画だが、その分想像の余地は大きい。もしかしたらこんな見方もできるのかも?と作品をじっくりと眺めながら思いを巡らせてみて欲しい。

 

Bunkamura 30周年記念 国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア 

会期:2018年11月23日-2019年1月27日

会場:Bunkamura ザ・ミュージアム

公式サイト:国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア | Bunkamura

 

 

 

 

ロシア・東欧のアート書籍専門店イスクーストバではイヴァン・クラムスコイの画集を取り扱っています。

《忘れえぬ女》の他にもクラムスコイは優れた作品を数多く残しています。

こちらの画集をお手にとっていただくとよりクラムスコイの世界を楽しむことができるでしょう。

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【古書】イヴァン・クラムスコイ画集 | ロシア・東欧のアート書籍専門店イスクーストバ